東京高等裁判所 昭和53年(ラ)1019号 決定
1 <中略>一件記録を検討すると、次の事実が認められる。
(一) 祭祀用財産
被相続人森篤夫(以下篤夫という。)は昭和四七年八月二八日死亡した。当時同人は祭祀用財産として次の墓地の使用権及び墓石(以下本件墓という。)を有していた。
東京都豊島区南池袋四丁目二五番一号
東京都雑司ケ谷霊園一種一三号二側一一番(使用面積六・六一〇平方メートル)
本件墓に埋葬されている者は、森俊行(篤夫の父、大正六年一二月六日本件墓を取得した者)、森シゲ(篤夫の母)、森健樹(篤夫の弟)、森廉三(篤夫の弟)、森延(森廉三の妻)、森實樹(篤夫の弟)、森賢祐・森得益(いずれも實樹の子)、森ヨシ子(篤夫の妹)である。
なお篤夫の遺体はその遺志により名古屋大学医学部において解剖に付されたのち、遺骨として名古屋市八事霊園の一時預所に保管中であり、森のぶ(篤夫の妻)、森正、森宏(いずれも篤夫の子で抗告人らの兄弟)の遺骨は名古屋市の覺王山日泰寺に保管されている。
抗告人らは篤夫らの遺骨を本件墓に埋葬したい意向をもっているが、墓地使用権者たる篤夫を埋葬するにはその承継者を定めるのを要する関係上、右意向を実現できず、本件解決後、これらの遺骨を本件墓に埋葬する方針である。
相手方森寿ゞ江はその夫であり篤夫の三男である森崇の遺骨を本件墓に埋葬する意思をもっていない。
(二) 慣習と指定
本件において、祖先の祭祀を主宰すべき者を定めるにつき、従うべき慣習及び被相続人による指定はない。
(三) 篤夫とその近親者との関係
(1) 篤夫は明治二五年一二月武人の家に生まれ陸軍士官学校を卒え砲兵将校として内地、朝鮮等に勤務し、その間後記のような五男二女を得、名古屋連隊区司令官在職中終戦を見、退官後名古屋市に住み、公職追放・軍人恩給停止・インフレーション等の困難な情勢のもとで失対作業員などをしつゝ、長女抗告人森博子と同居して、同人の協力をも得て子女たる抗告人らを東京の大学で学ばせ、晩年を抗告人森博子のもとで送り昭和四七年八月二八日病死した。
(2) 篤夫の妻のぶは昭和二三年九月二六日、長男正(大正九年生)は昭和一八年六月二三日、三男宏(昭和四年一〇月一五日生)は昭和二五年八月二〇日それぞれ死去した。正も宏も直系卑属はない。
(3) 篤夫の長女抗告人森博子(大正一二年三月二二日生)は名古屋市の中学校教員を勤め、父篤夫と終戦後も同居し、弟妹に学資を送り、篤夫の晩年までその面倒をみたが、同人の遺志により、その死を直ちに関係者に通知しなかった。未婚であるが、現在養女酒井幸子とその夫らと同居している。
(4) 篤夫の二男崇(昭和三年九月一一日生)は篤夫のあとをついで陸軍士官学校に入校したが、終戦後相手方森寿ゞ江(昭和六年六月一三日生)と婚姻し相手方貴(昭和三五年一〇月二五日生)と相手方茂(昭和三九年九月二〇日生)とを得、株式会社三和銀行の東京・名古屋・大阪の各支店等を歴任、昭和四七年九月篤夫の死を知らずにアメリカ合衆国に出張し、同年末帰国してその死を知り、祖先の祭祀主宰者を引き受ける意向をかねてもってはいたものの、この点につき関係者の協議をみないうちに、神経をいため大阪警察病院に入院、昭和四八年二月二七日自殺した。崇は結婚後篤夫と同居したことはなく、その間柄は必ずしも親密ではなかった。
相手方森寿ゞ江は後述のように篤夫、抗告人らとは崇生前も含めしっくりゆかない面があり、昭和四九年一一月二二日崇の親族との姻族関係終了の意思表示をした。しかし寺島に復氏の手続きはしていない。
相手方森貴、森茂は相手方森寿ゞ江に養育されている。
(5) 篤夫の二女抗告人三浦和子(昭和六年一月四日生)は岐阜県土岐市中学校教員を勤め、同一職業の夫邦男との間に一男一女を得た。
(6) 篤夫の四男抗告人森永(昭和九年六月二八日生)は名古屋市職員(上級職)として同市役所に勤務しており、妻と男子一人がある。
同抗告人は亡父篤夫の軍人生活等についても敬慕と理解とを示し、その陸軍士官学校同期生らとも幅広く交際をしている。
(7) 篤夫の五男抗告人森淳(昭和一二年一二月二一日生)は東京に在住し、日本火災海上保険株式会社新宿支店に勤務している。
(8) 篤夫の弟森實樹の妻森とりは本件墓に夫と二子の遺骨を埋葬しているほか、後記のとおりその維持管理に貢献している。
(四) 森家の祭祀
篤夫在世中はその僧職嫌いと戦後の経済的困難もありとくに祖先の法要をとり行わず、また菩提寺というべきものはない。篤夫の妻子の不幸に際してはキリスト教式で葬儀をとり行った。
篤夫は軍人をして各地を歴任した関係もあり、本件墓の管理を弟森廉三に、その死後その妻森延に、その死後昭和三五年以降森とりに委ね、東京都に対し管理費を納入してきたほか森とりをして墓石をたてかえさせた。昭和四九年六月以降は抗告人森永が右管理費を立替払いし、かつ森とりに対する管理の委託をとりやめた。
篤夫の死を知った崇は自ら亡父の葬儀を営む意向であり、これにつき抗告人ら及び相手方らにおいて異議を述べていないが、崇は葬儀を行う前に自殺してしまい、また本件墓の使用名義を崇に変更もしていない。
(五) 本件申立てに至るまでの紛争の概要
相手方森寿ゞ江は、かって崇と東京で世帯をもち、抗告人森淳を同居させたころから互にしっくりせず、篤夫とも疎遠であって、崇の名古屋支店在勤中も近くに住む篤夫との往来に乏しかった。篤夫の死に際し崇らは抗告人森博子からその旨の通知を受けなかった。
右相手方は崇の葬儀等の頃から一層抗告人らとの折合を欠き、昭和四八年四月一五日挙行の崇の四九日法要において、列席の抗告人らから生前の崇に対する態度につき責められ、また崇の遺骨の埋葬場所についても意見が対立し、抗告人らとの間に口論となったが、法要の終った後崇の遺骨が紛失した。抗告人らは右相手方に対し崇の妻として祖先の祭祀を行うべく、本件墓を承継するよう求めていたが、右相手方は抗告人らとの協議を拒み、その後抗告人森淳、森永らの来訪を受けた際には険悪な空気となりパトカーを呼ぶさわぎまであった。この間昭和四九年中篤夫の弟森健樹の子小島俊夫があっせんに乗り出したが、結局まとまらず、本申立てに至った。かような次第で右相手方は前述のように姻族関係終了の意思表示をしており、抗告人らはもとより篤夫の兄弟もふくめ、森一族とは親族関係もなければ、親族としての交際も全くない。
(六) 本件墓承継者指定についての関係人の意見
(1) 篤夫は生前抗告人森博子に世話になったので、死後も面倒をみてもらうには忍びないとして、同人を指定することに消極的であった。なお直系卑属以外の者に本件墓を譲る意思はなかった。
(2) 抗告人らは相手方森寿ゞ江が適当であると述べ、次善の策として、抗告人森淳は相手方森貴を、又は抗告人から選ぶならば抗告人森永を適当とすると述べ、抗告人森永は抗告人森淳を、又は相手方森寿ゞ江の代替執行者として抗告人森永を適当とすると述べ、抗告人森博子同三浦和子らは墓守料を支給するならば抗告人森永を適当とすると述べた。
(3) 相手方ら三名は本件紛争の経過等にかんがみ、将来とも抗告人らと親族の交際をする意思を欠き、従って崇以外の祖先の祭祀を行う気もないことを理由として、本件墓を承継する意思なく、相手方ら以外の何人が承継者として指定されても異議ないと述べている。
(4) 森とりは抗告人ら及び相手方森寿ゞ江のうちから承継者が定められるべく、これらが定められないときは自ら墓守をするつもりであると述べている。
2 右事実にもとづき検討する。
(一) 申立権の濫用の成否
抗告人らは、本件墓の承継者が決定されないため、亡父篤夫らをここに埋葬できず、祖先の祭祀執行上重大な支障を生じているから、本件申立てに及ぶのは当然というべく、抗告人森淳は本件において相手方森寿ゞ江及びその実家の「悪業」を列挙しこれを徹底的に糾弾すると述べてはいるが、これは前記のような紛争の実情に照らせば、同抗告人の真情を激しい表現で吐露したものにすぎず、これがあるからといって、前記の支障を除去するための本申立てが、申立権の濫用と評価さるべきものではない。
(二) 承継者の指定
本件墓の承継者は、篤夫の近親者たる抗告人ら相手方ら及び森とりのうちから適当な者があれば、選任さるべきである。
よって、前記のような紛争の実情にかんがみ、生前の篤夫との生活関係、同人に対する親近感及び敬慕の念、篤夫のほか本件墓に埋葬されている者及び埋葬予定の者との親族関係、祖先の祭祀主宰の意思と能力、関係者の意見を総合して考察すれば、抗告人森永が右承継者として最も適任であるというべきである。
(三) 以上の理由によりこれと異る原審判を取り消し、抗告人森永を本件墓の承継者と定め<る。>
(川島 沖野 谷沢)